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謹んで新年のご祝詞を。


「小噺で面白いのがあるんや。"ゆんべ、茄子の夢を見た。でっかい茄子やった"と、ある男が言うんや」


「茄子ですか」


「相棒がな、"でっかい茄子て、どれくらいでっかいんや。賀茂茄子くらいか"と尋ねると。いやいやそんな小さなものやない、と。そしたら大根くらいある茄子か、と言うと。とてもとてもそんな寸法やない。そしたら牛くらいの茄子か、家くらいの茄子か。いや、もっともっと大きい。山くらいの茄子か。なんのなんお、もっとでかい。相棒も呆れて、全体どれくらいの茄子なんや、と訊いたらな。はあ、まあ、たとえて言えば、”暗闇にヘタをつけたような"‥‥‥、とな」


「はい」


「どうや、面白かろう」


「はい」


「阿保、面白かったら、笑わんかい。」


「申し訳ございません」


「今夜の闇は、ほんまに、ヘタつけたりたいような闇やな」


「はい」


−−"どうも、とりとまりのつかないのが落語らしいんでございますナ。"と"これ、みな洒落から出ているんであります。"と志ん生。



 中島らも著『ガダラの豚Ⅰ』の序文を勝手に引っ張らせていただだき、正月っぽい話を。

そんな縁起の良い夢、見たいもんやなと思いますが二度寝の時しか夢を見ない自分には難しく、ましてや"超スペクタクルファンタジー"か"ホラー"ばかり。たまには縁起の良い夢でも見させてくれやいと思うたり。でも、世の中がよっぽど面白いなと思います。悲惨な戦争や災害もあるが疲弊することなく、全部ひっくるめて面白がってやる胆力と洒落が、見ようと思えば白面で"現れる"見えない物が、捨てるにはもったいない世の中であります。


「志ん生師匠、洒落はだいじですナ。」


『Saltburn』監 エメラルド・フェネル 2023年


2023年はありがたいことに忙しくさせてもらいあまり映画を見れなかったが、年の瀬に見たエメラルドフェネル監督作『Saltburn』がかなり良作だった。

バリー・コーガン演じるオリヴァーは中流育ちのいかにも普通な家族の次男だが少し冴えない。オックスフォード大学に入学し、いわゆる一軍にあたる貴族育ちのフィリックスと仲良くなり、彼の実家がある、ソルトバーンでひと夏を過ごすお話。オリヴァーは帰らない。フィリックス・フィリックスの母、姉と次々と家族の心を掌握し取り込んでいく。バリー・コーガンの怪演が輝く。

バリー・コーガンをはじめてみたのは『ダンケルク』だったが、名を知らしめたのは『聖なる鹿殺し』だと思う。なんとな。こんな役者が出てきたのかと驚いた、こんな生々しく本能クサく行き切る人はなかなか現れないように思う。今作においても、精子まじりのお湯を飲んだり、墓の土とセックスしたりとこれぞバリー・コーガンという演出が痺れる。

普遍的な青年が一家を掌握し、普遍が崩れていくと言うプロットはフランソワ・オゾンの『危険なプロット』や上記に挙げたヨルゴス・ランティモスの『聖なる鹿殺し』、黒沢清の『クリーピー偽りの隣人』など同じような映画はいくつかあるが、今挙げた映画は全て好きで繰り返し見た作品ばかりである。

ただ、バリー・コーガンからしか摂取できない不快感がある。最近思うのは、やはり同世代の役者に限らずスポーツ選手やお笑い芸人さんには親近感を持つ喜びを感じることができる。我々の世代はこっからなんやなとしみじみ、ゾクゾク。

毒気と退廃と虚栄、バリー・コーガンと共に歳を食っていきたい。


今年から少しづつ面白いことをしていけたらと策略しております。次の冬物、その次の夏物の主題も決め、そろそろ外にも行こうかと。

さておき、"楽に生きたら"と『となりの山田くん』のように!

「やるぞー!やるぞ〜やるぞ~・・・」っと。


-------『終わり』。










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